-親鸞聖人がお開きになりました-
老若男女問わず、全ての人が救われる教えのことです
平生業成(へいせいごうじょう)
「平生業成」とは「人生の目的が、現在に完成する」ということです。死んだ後ではなく、生きている現在こそ果たさねばならない。
親鸞聖人は人生の目的と、その完成のあることを強調されています。
「人間に生まれたからには、これ一つ果たさなければならない大事業がある。それは現在、完成できる。だから早く完成しなさいよ」と生涯教えられたのが親鸞聖人ですから、聖人の教えを「平生業成」というのです。
何のために生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
苦しくともなぜ生きねばならないのか。
「人生の目的」を、親鸞聖人は明らかにされています。
比叡山での修行に絶望された親鸞聖人
9才で仏門に入って20年、それから比叡山で血を吐く難行苦行に専心されましたが、どんなに修行をしても、欲や怒り・うらみ・ねたみといった煩悩がなくならないことに絶望し比叡山を下りました。こうした苦悩や疑問をかかえての長い修行を通して、自力の修行によっては、ほとけになることができない自分であることを自覚された聖人は、自分のような者でも仏になる道はないものかと苦悩しました。
法然上人との出会い
法然上人から、どんな人でも平生に絶対の幸福に救う阿弥陀仏の本願を聞き求めた親鸞聖人は本願通りの絶対の幸福に救われました。
それは、阿弥陀如来様のお力によって、どんな人でも煩悩いっぱいの自分のまま救われる道。誰しもが修行を積まなくとも仏に成る道を見つけたのです。
阿弥陀如来は三世十方の諸仏の本師・本仏なり
本当の幸せになれない原因は、無明の闇という暗い心があるからだと言われています。
その無明の闇を破る力が阿弥陀如来の力である。それを「他力本願」といいます。
南無阿弥陀仏の名号で仏にさせて頂く
仏教の目的は、さとりを開いて仏になっていくことにありますが、その方法については、自ら心身を鍛錬して、自らの力で、この世でさとりを開くことを目指す自力聖道門の仏道と、私たちにはそのような自力の行では、とてもさとりを開くことなどかなわないことを私自身が気がつくより先に、そのことをお見抜きになった阿弥陀さまが、そのままの私を救いとって、命終わった後に浄土に往生せしめて仏にしてくださる他力の本願力による他力浄土門の仏道があります。
親鸞聖人はどんなに修行を重ねても、煩悩が消えることが無い自分であることを素直に述べられていることが、実に人間らしいところでありましょう。
立派な高僧だけが救われる教えではなく、私たち一般の人間にも仏になっていく道を自らお示しになって下さったことが素晴らしいことです。
御臨末の御書(親鸞聖人の遺言)
親鸞聖人が90才でお亡くなりに成りますが、その時に詠まれた詩があります。
一人居て喜ばは
二人と思うべし
二人居て喜ばは
三人と思うべし
その一人は親鸞なり
この世での命がつきて、お浄土で仏となる親鸞は、そこでゆっくりとしているのではない。 今度は仏と成って私達とともに寄り添って下さる人になられたお方であります。
親鸞はあなたのところにきているぞ、いつもそばにいるからね ということであります。
つまり、煩悩でまみれた私たち人間の眼(まなこ)は、人間に生まれさせて頂いて、全てを与えられているのに真実の幸せが見えていずに、あれが足りない・これが足りないと不平不満ばかりです。
しかし、阿弥陀如来様の真実のお話を聞かせて頂くと、どんなに幸せな自分であるかを気づかせて頂けます。生きることは苦しいことではありますが、生きる意味をしっかりかみしめ、強く明るく生きる力を浄土真宗は与えて下さいます。
浄土真宗は聴聞がなにより大事と言われています。
難しい勉強をすることはない。聴聞が一番大事なんです。
お寺に集い、聴聞させて頂きましょう。
親鸞聖人と二人連れの喜びを一緒に味わいましょう。
いつもお待ちしております。