明治の開拓者がみんなで建てた、心のよりどころ本誓寺
本誓寺初代総代 原田三十良さんをはじめ、開拓者の心に島松にも本願寺派のお寺がほしいという熱い気持ちで、札幌別院に依頼し、開教の命がが出され滋賀県に住む野口道性が島松の地に開教使として任命された。 開教とお寺の建立の苦労は言葉に表せられるものではないくらいの艱難辛苦であった。
明治30年4月に、敷地5千坪を原田専松さんから正式の寄付を受け「説教所」を公称することができた。(このことは本誓寺百周年記念の時にだされた「百年間のお寺と檀家のお付き合い」四代目総代長 山岸 貢さん執筆・監修 に詳しく書かれている) この時から、心のよりどころとして、開拓者の思いが叶い、住職と檀家さんたちの深いお付き合いが始まり、現在に到っているのである。
本誓寺の梵鐘
昭和5年春に、浅野亀治郎さんから寄進されたものであるが、太平洋戦争が激化して軍事物資が極端に不足し、昭和19年には本誓寺の梵鐘も戦争に協力して供出されることになってしまった。門信徒の熱意で蓮如上人御遠忌450回法要の記念事業として梵鐘を鋳造することになった。鋳造元には、滋賀県愛知郡長村の鋳造師にお願いした。
昭和24年鋳造された梵鐘が無事に島松駅に到着した。 駅から寺までの梵鐘運搬は大変賑やかなものであった。住職をはじめ門信徒の方が集まり、一台の歩道車には白い布を巻いた梵鐘を乗せ、もう一台の歩道車には、島松の若者で結成された法友会の方が踊りや歌を歌い、先頭をきって歩いたのは、すみごろもに自分で作った山伏のつけるような大きな数珠を肩からかけ、大きな下駄を履き、錫杖に似せた長い杖をついて歩いたのだった。周囲は観客が群がり、かけ声をかけながら歩道車を引っ張り、踊り手は車の上で踊りまくっての行列であった。6線18号の曲がり角や西5線用水の道角では、車を止めて皆でどぶろくを飲み、盆踊りを踊っての大騒ぎであった。
梵鐘が寺についたのは、夕方近くになり鐘楼台に梵鐘を安置された。こうして、本誓寺の梵鐘は、40年以上たった現在も美しい音色を響かせているのである。